ランバート、ヘンドリックス、ロス
キャラバン( Caravan )
作詞 アーヴィング・ミルズ ( Irving Mills )
作曲 デューク・エリントン ( Duke Ellington )、ファン・ティゾール ( Juan Tizol )
LAMBERT,HENDRICKS,ROSS ( COLUMBIA )
Caravan
Night and stars above that shine so bright
The myst'ry of their fading light
That shines upon our caravan
夜 鮮やかに輝く星
ほのかに消えゆく神秘の輝きが
キャラヴァンのうえに降りそそぐ
Sleep upon my shoulder as we creep
Across the sand so I may keep
The mem'ry of our caravan
砂漠をよぎっているあいだ
私の肩にもたれて眠るがいい
この良きキャラヴァンの想い出を 私が忘れぬように
This is so exciting
You are so inviting
Resting in my arms
As I thrill to the magic charms
うっとりとする宵
あなたが誘うように
私の腕のなかに安らぎ
その魔力に私は融けゆく
Beside me here beneath the blue
My dream of love is coming true
Within our desert caravan
紺碧の空のした 私のかたわらにあなたがいて
愛の夢が現のものになろうとしている
このわれらの砂漠のキャラヴァンのなかで
訳詞 村尾陸男( ジャズ詩大全第三巻 )
この歌の歌詞を作ったアーヴィング・ミルズ(1894-1985)は
ニューヨークで生まれ、25才で弟のジャックと共にミルズ・
ミュージックという音楽出版社を設立して74才までに、
世界最大の独立系音楽出版社に育て上げました。ミルズ兄弟は
ホーギー・カーマイケルを始めとする多くのソング・ライター
を発掘し、彼自身のオーケストラ"Irving Mills and his Hotsy
Totsy Gang"を作り、そのサイドメンとしてトミー・ドーシー
その他多くのスター・プレヤーを育て、彼自身も歌を歌いま
した。また彼のバンドにグレン・ミラーやベニー・グッドマン、
レッド・ニコルスを客演者として迎えました。ある晩彼は小さな
ケンタッキー・クラブでワシントンDCから来たケンタッキー・
クラブ・オーケストラを率いるデューク・エリントンと出会い、
すぐに契約を交わしました。そして二人で多くの名歌を生み出し、
レコーディングしました。そして当時最大のコットン・クラブで
エリントンはバンド演奏を行うようになりました。後には数々の
新しい試みを行い、はじめての黒人、白人の混成バンドや、女性
メンバーだけのバンドを作り、プロデュースを行いました。42才
の時、デューク・エリントンをはじめとする傘下のアーティスト
による小編成バンドを売り出すために"Brunswick"と"Vocalion"
という2つのレーベルを作り販売攻勢を行いましたが、ヨーロッパ
大陸へのマーケティングに失敗し、大手レコード会社のビクター、
デッカに敗れ、2つのレーベル会社は翌年に破産いたしました。
しかし、これらのレコードは大手のARCレーベルに引き継がれ、
レコード・シリーズ番号は残って販売は続けられました。この
"Brunswick"レーベルが後の大レーベル、コロンビア・レコード
の前身となりました。アーヴィングは"American Recording
Company(現在のコロンビア・レコード)"のトップとして録音を続け、
6つのラジオ局に出演して彼が作った歌を歌い続けたのです。
その他1本の音楽映画"Stormy Weather(荒れ模様)"をプロデュース
し、歌手のリナ・ホーン、キャブ・キャロウェイ、ドラマーの
ザティ・シングルトン、ピアノのファッツ・ワーラー、ダンサー
にはニコラス兄弟、ビル・ロビンソンのトップ・アーティストを
起用しました。アーヴィングは92才でその生涯を閉じましたが、
ジャズにおけるその功績は黒人エンタテーナー界のリンカーンと
称えられました。そのアーヴィング・ミルズとパートナーを組んだ
デューク(公爵)・エリントン(1899-1974)は、ワシントンD.C.市内で
海軍のコピー印刷と、ホワイトハウスの執事の仕事をしていた父親の
息子として生まれました。両親ともピアノが弾けた彼は7才の頃から
先生についてピアノを習い始め、14才頃からその演奏に熟達しまし
たが、高校は商業アートのコースに進みました。高校卒業の3ケ月前
に退学し、プロのピアニストになりました。19才で幼馴染みと結婚
し、最初は広告看板の絵描きをしておりましたが、24才で小さな
ダンスバンドを結成し、すぐにニューヨークへ進出しました。そして
前述のケンタッキー・クラブでハウス・オーケストラを率いて演奏を
行い、アーヴィング・ミルズと出会いました。そして36才の時に
このキャラバンを彼の楽団のトロンボーン奏者のファン・ティゾール
と共に作曲し、その2年後に上記のアーヴィング・ミルズが詩をつけ
ました。その後も名曲を次々に作曲し、42才の時にはジャズ不朽の
名曲”A列車で行こう(Take the 'A' Train)”を作曲し、楽団のテーマ
曲としました。そして映画”絢爛たる殺人(Anatomy of A Murder)”
の音楽でグラミー賞3部門を獲得したほか、合計9回もグラミー賞を
獲得しました。また、70才で当時のリチャード・ニクソン大統領より
アメリカ自由勲章が授けられた他、1973年にはフランス政府からも
レジオンドヌール勲章が授けられました。ここでこの歌を歌っている
ランバート、ヘンドリックス、ロス、のディブ・ランバート(1917-
1966)は20代のはじめからジョニー・ロングス・オーケストラで歌い
はじめ、エラ・フィッツジェラルトと同じくモダン・ジャズでボーカル
を歌いました。そして後に3声混成のディブ・ランバート・シンガーズ
を結成し、キャピトル・レコードに吹き込みを行いました。そして
50年代の後半に、このランバート、ヘンドリックス、ロスを結成して
名声を確立しました。このグループは1964年にアニー・ロスが
ソロ歌手として抜けるまで、多くのヒット盤をリリースしました。
ジョン・ヘンドリックス(1921年生まれ)は14人兄妹の一人として
オハイオ州ニューアークに生まれ、牧師であった父親家族と共に父親
の任地を転々とし、最後は同州のトレドに落ち着きました。10代の
はじめ頃から地元のラジオ局に出演し、ピアノのアート・テイタムの
バックで歌を歌いました。第二次世界大戦召集後はトレド大学で法律
を学びましたが、後に偉大なサックス・プレーヤーとなるチャーリー・
パーカーと出会い、その2年後にニューヨークへ行きパーカーと再会
して、本格的に歌手への道に進みました。36才で上記の二人とボーカル
グループのランバート、ヘンドリックス、ロスを結成しました。この
グループで活躍の後は、47才でソロ・シンガーとしてロンドンに活動
拠点を移し、ヨーロッパ、アフリカをツアーで巡りました。またロンドン
のTVにもしばしば出演し、イギリス、フランスのジャズ・ドキュメン
タリー映画にも出演して歌いました。家族と共に5年間ロンドンで活動の
後はカルフォルニアのバークレーに戻り、カリフォルニア大学のバーク
レー校で教鞭をとり、サンフランシスコ・クロニクル紙でジャズ批評の
記事を掲載しました。また別年にはロスアンジェルスTV局でドキュ
メンタリー番組"Somewhere to Lay My Weary Head"を制作し、エミー、
アイリス、ピアボディの各賞を受賞しました。そして1985年には
ボーカル・グループのザ・マンハッタン・トランスファーとアルバム
"Vocalese"を共同制作し、7つのグラミー賞を獲得しました。2000年、
79才で故郷のトレドに戻り、トレド大学のジャズおよびパフォーマンス
の教授となりました。そして現在も精力的にその活動を続けております。
アニー・ロス(1930年生まれ)はスコットランド人の両親のもとイギリスで
生まれ、アメリカのカルフォルニアに住んでいた女優で歌手の叔母、エラ・
ローガンのもとで育ちました。叔母の弟ジミー・ローガンも俳優、監督、
エンタテイナー、劇場主でした。彼女の最初のソロアルバムは22才の時
ニューヨークで収録されたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)との
"Singin' and Swingin'"で、4年後にはバリトン・サックスのジェリー・
マリガン、トランペットのチェット・ベーカーとの共演で、"Skylark" 、
その2年後には
"Sings A Song With Mulligan"
またその翌年には
テナーサックスのズート・シムズとの"A Gasser!"と、当時のモダン
ジャズ・トップ・プレヤー達とレコーディングを行っておりました。
そしてその間の27才から5年間にこのランバート、ヘンドリックス、ロス
のコンビで7枚のLPレコードをリリースして大きな話題となりました。
その内の1枚のLPがこのレコードで、CDリメークの際に7枚のLP
レコードから3枚がこのCDに収められております。従ってこのジャケット
写真はこのキャラバンが入っているオリジナルLPレコードの写真(CD
の中に入っている)を掲載しました。これらのレコードは大ヒットし、3人
は世界中をツアー公演して巡りましたが、アニーが32才の時、グループは
解散し、アニーは母国のロンドンへ戻り、ナイトクラブ”アニーズ・ルーム”
をオープンしました。そこには彼女自身の他、旧友のジョン・ヘンドリックス、
歌手のアニタ・オデイ、ピアノのエロル・ガーナー等、大物のジャズアーテ
ィストが出演し、そこでの1965年のライブ演奏盤は昨2006年にCDで
発売されました。その他アニーは映画女優としても数本の映画に出演し、舞台
でもロンドンとニューヨークでミュージカル女優として出演しました。
アニーは現在も毎週木曜日の晩にニューヨークのメトロポリタン・ルーム
というクラブでコンボバンドをバックに歌い絶賛を博しているそうです。
アニー・ロス( オール・ミュージック・ガイド )
ディブ・ランバート( Wikipedia )
ジョン・ヘンドリックス( NEAジャズ・マスターズ )
デューク・エリントン ( 公式サイト )
リク村尾のHP(ジャズ詩大全)
現在のエジプト・ピラミッド風景( ライブ・カメラ )
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