シェリル・ベンティーン ( Cheryl Bentyne )
アイ・ゲット・アロング・ウィズアウト・ユー・ベリー・ウェル
( I Get Along Without You Very Well )
作詞・作曲 ホーギー・カーマイケル ( Hoagy Carmichael )
Cheryl Bentyne sings "Waltz for Debby" ( KING RECORDS )
この歌を作ったホーギー・カーマイケル(1899-1981)は、
インディアナ州のブルーミントンで、馬車のタクシーと
電気工事をしていた父と、無声映画とパーティでピアニスト
をしていた母との間に生まれました。カーマイケルは6才で
ピアノと歌を習い始め、母のピアノの技術を吸収しました。
中学生時代は学校終了後にピアノの練習に励み、当時流行の
ラグタイム
・ピアノのレコードに耳を傾けました。18才
の時、一家はインディアナポリスに住んでおり、彼は小さな
青白い青年でしたが、家計を助けるため、自転車のチェーン
を作っている工場や家畜の屠殺場で働き、家計を助けました。
余暇には母親や黒人のバンドリーダーであった親友のレグ・
デュベールとピアノの連弾演奏を行い、レグは彼に
アドリブ
演奏のコツを教えこみました。彼が19才の時、世界中で流行
したウィルス感染により3才年上の姉が亡くなり、深い悲しみ
を味わって貧乏生活への決別を誓いました。ホーギーが音楽で
初めて金を稼いだのは、友愛会館でのダンスパーティの演奏で
5ドルを受け取り、ここから彼の音楽人生が始まりました。
この頃からインディアナ大学に出席し26才で学士号、翌年
には法律学士号を取得しました。そして"Kappa Sigma"という
社会奉仕団体に加入して全米でピアノ演奏を行いました。
そこで親友となったビッグス・ベイダーベック(コルネット、
ピアノ奏者)とも知り合い、一緒に演奏しました。そこで
ビッグスが師と仰ぐ
ルイ・アームストロング
を知り、シカゴ
での演奏でビッグスにルイ・アームストロングを紹介されま
した。その頃から歌の作曲を始めた彼は、"Washboard Blues"
と"Boneyard Shuffle"をカーチス・ヒッチに、また"Riverboat
Shuffle"はビッグス・ベイダーベックの演奏でレコード化され
ました。27才で大学卒業後マイアミの法律事務所に所属しま
したが、試験に落第したため、インディアナに戻りました。
そこでインディアナの法律事務所に所属して今度は州の試験に
合格となりましたが彼の情熱は音楽に向かい、バンド音楽の
編曲や作曲活動に没入しました。28才で書き上げた彼の最も
偉大な
”スター・ダスト”
が彼のピアノ演奏により録音され
ました。この曲は後に彼自身が作詞もつけて、アメリカの
スタンダード曲となりましたが、その名が知られるように
なったきっかけは、ポール・ホワイトマン楽団で彼が作曲
した"Washboard Blues"を彼の歌とピアノ演奏でレコード化
された時からで、これにはドーシー・ブラザーズやビッグス・
ベイダーベックも加わっていました。その後彼が作詞、作曲
した"Rockin’Chair"がルイ・アームストロングや女性歌手の
ミルドレッド・ベイリーによりレコード化されてメジャー
なソング・ライターとなりました。その後所属の法律事務所を
解雇された彼はハリウッドに行きミュージカルの仕事を目指し
ましたが楽団と対立し、30才でニューヨークへ移りました。
そこでデューク・エリントンのマネジャーで音楽出版社を経営
していた
アービング・ミルズ
に雇われてレコーディングの準備
をしていましたが、10月に起こったニューヨーク証券取引所
の株の大暴落で苦労して貯めた金を失いました。しかし前述の
"Rockin’Chair"をルイ・アームストロングがレコードにした
ため、窮状は救われました。また後年レイ・チャールズが歌って
大ヒットとなった"Georgia on My Mind"もこの年1931年に
作られました。また"Up a Lazy River"が作曲され、前述の
”スター・ダスト”に詩がつけられて、
ビング・クロスビー
による歌がレコード化されました。この頃からジャズはホット
からスウィング・ジャズの時代に突入しましたが、34才の時
新進の歌詞ライターの
ジョニー・マーサー
と組んで"Thanksgiving",
"Moon Country",および"Lazybones"を作曲しました。これらは
当時としては破格の3ヶ月で35万枚以上の売り上げを記録
しました。こうして35才でニューヨークでセレブとなった
彼は翌年ハリウッドに移り、ワーナー・ブラザーズ映画社の
作曲部門で仕事を行い、最初に作曲した映画ソングが"Anything
Goes"でした。同年、パラマウント映画社と新たに週1000$
で契約を結び、牧師の娘と結婚して多くのハリウッドの作詞家
と映画ソングを作りました。第二次大戦後のこの時代、43才で
親交のつづいていたジョニー・マーサーとの共作で
" Skylark"
を作曲し、すぐに多くの楽団や歌手によりレコード化されま
した。またこの時代カーマイケルは俳優としても14本のハリ
ウッド映画に出演しました。この歌"I Get Along Without You
Very Well"は40才の1939年に作られた歌ですが、歌詞は
生まれ故郷のブルーミントンで人からもらったものとされまし
たが作者不詳で最後はフィラデルフィア在住の女性であることが
判明しました。しかしその女性がすでに死亡していたため、
カーマイケルを作詞者の名前にしたということです(村尾陸男著、
ジャズ詩大全第三巻より)。カーマイケルは1981年に82才
で亡くなりましたが、ハリウッドでラジオ、テレビ、映画に
数多い名歌を提供しつづけました。ここでこの歌を歌っている
シェリル・ベンティーンは太平洋岸ワシントン州のシアトルに
バンドリーダーでクラリネット奏者を父親に持って生まれ育ち
ました。父親のバンドがよく自宅でリハーサルを行っていた
ので、そこでよく歌を歌っておりました。高校卒業後に地元の
"The New Deal Rhysm Band"に加わりコーヒーハウスで歌いまし
たが、そこでミュージカル的な歌唱法とアドリブ唱法を磨きま
した。そこでのツアー公演中にタレント事務所のスカウトの目に
止まり、数ヵ月後にそこからソロ歌手としてロスアンジェルスの
クラブに出演を始めました。1979年に彼女のマネージャーが
マンハッタン・トランファー
が新しいメンバーを求めてオーディ
ションを行うとの情報を入手して彼女はそれに応募して、その
メンバーとなりました。加入後の初アルバムが1979年の
"Birdland"で、それは見事にグラミー賞を獲得し、それ以来
10回以上のグラミー賞に輝いております。そして1988年
にはベーシストのロブ・ワッサーマンとのデュエットアルバム
をリリースして喝采を博しました。また
ジューン・クリスティ
に
捧げる初のソロデビューアルバム"Somethig Cool"をリリース
しました。そして1990年には映画ディック・トレーシー、
1991年にはアラン・ルドルフ監督の映画"Mortal Thoughts"
のサウンド・トラックでトランペッターのマーク・アイシャム
と共演で歌いました。2000年にはコール・ポーターの
ミュージカルを元にした"Dreaming Of Mister Porter"のレコー
ディングと公演をボストンとシアトルで行い好評を得ました。
そして日本のキング・レコードから3枚のソロアルバム"Talk
Of The Town"、"Moonlight Serenade"、"The Light Still Burn"
をリリースして、"TalkOf The Town"は2004年にアメリカの
"Telarc"レーベルから再発売されました。2005年には同社
から
アニタ・オディ
に捧げた"Let Me Off Uptown"をリリース
しました。そして2006年には"Book Of Love"がリリースされ
ました。そして日本のキング・レコードから4枚目のソロアルバム
としてこのCD"sings
Waltz for Debby
"がリリースされました。
なはこのCDはスウィング・ジャーナル誌のゴールド・ディスク
に選定されております。またこのCDは当サイト閲覧者のどなた
かがアマゾンを通じて購入されたのを知り、皆さんにもご紹介する
こととしました。当ページを通じてその方にお礼を申しあげます。
ありがとうございました。
シェリル・ベンティーン ( 公式サイト )
ザ・マンハッタン・トランスファー ( 公式サイト )
ホーギー・カーマイケル( 公式サイト )
リク村尾のHP(ジャズ詩大全)
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