ルイ・アームストロング シュガー ( Sugar )
作曲・作詞 メスィオウ・ピンカート / スィドニィ・D・ミッチェル
Louis Armstrong "Sugar" ( BMG )
シュガー
オー シュガー、僕は恋人をシュガーと呼ぶのさ
いつでも必ず僕のシュガーとね
だから彼女はとっても甘いシュガーなのさ
おかしなことに、彼女は僕に金をせびったことがないのさ
僕はできるだけのことをするから
彼女はいつでもそれを受けれるのさ
僕は彼女の唇に百万回も通うのさ
僕がミツバチだったら
だって彼女はどんなキャンディより甘いんだ
まるでグラニュー糖みたいに
シュガー、僕は絶対に彼女を裏切らないよ
だって僕はシュガーに首ったけなんだ
シュガーは僕のベイビーなんだ
サッチモの愛称(satchel-mouth / 小鞄の口 )で呼ばれる、
ルイ・ダニエル・アームストロング(1901-1971)はルイジアナ
州のニューオーリンズで極貧の家庭に生まれました。彼の
祖父はアフリカから来た奴隷でした。父はルイが幼いときに
家族を捨て、他の女に走りました。そして母も家を去った
ために、彼と妹は祖母により育てられました。5才で再び
母とその親戚の元に引き取られましたが、父親はパレードの
時だけしか見かけることができませんでした。その頃から
フィスク(南北戦争のフィスク将軍)少年学校に通い、そこで
はじめてクレオール(南北戦争以前のフランス、および
スペイン領植民地)・ミュージックに触れました。彼は
新聞売りとレストランの残り物の食べ物を拾って、母親の
売春による稼ぎを助けました。彼は住まいに近いダンス
ホールの“Funky Butt”でクォドリル・ダンス(4人組の
ダンス)を観察し、石炭運びの仕事で赤線街(売春地区)
まで行って売春宿やダンスホール、特に"Pete Lala’s "で
行われているジョー・"キング”・オリバー(バンドリーダー、
コルネット奏者)や他のプレーヤーの演奏に聴き入りました。
サッチモは階級世界の最下層に育ちましたが、未だジャズ
と呼ばれる以前のラグタイム音楽が大好きでした。11才で
フィスク少年学校をやめて5人組の少年コーラスグループに
加わり路上で歌い、金を稼ぎました。そしてコルネット奏者の
バンク・ジョンソンはトンク(バー)でサッチモにコルネット
の吹き方を教えましたが、この時少年はまだコルネットを
持っていませんでした。最初のコルネットはロシア系ユダヤ
移民のカルノフスキーに金を借りて手に入れました。カルノ
フスキーは廃品回収業をしていましたが、サッチモを家族同様
に扱い、彼を養育しました。これによりサッチモは終生の間、
”ダビデの星”のペンダントを身に着けていたそうです。地元の
"Coloredバンドでコルネットの演奏に励むようになり、教授
のピーター・デイビスの厳しい音楽訓練と自習により、バンド
リーダーとなりました。13才で彼のコルネット演奏は注目
されるよになり、14才で元の父親とまま母と暮らしました
が、すぐに実の母親の家に戻りました。サッチモは初めて、
"Henry Ponce"ダンスホールで仕事を得て、そこではバンド・
ドラムの創始者ブラック・ベーニーが後見人となり、昼間は
石炭運び、夜はバンドで演奏をしました。また街では、しばしば
ブラスバンドで演奏を行い、先輩のミュージッシャンである
バンク・ジョンソン(トランペット)、バディ・ペティット
(コルネット)、キド・オーリー(トロンボーン)、そして
大御所のジョー・"キング”・オリバー(コルネット)の演奏
に接してその奏法を学びました。その後、ミシシッピー川の
蒸気船のブラスバンドで演奏を始め、最初は有名なフェイト・
マーベル(バンドリーダー、ピアノ)のバンドに加わり、そこで
あらゆる奏法や編曲法を学びました。1919年、サッチモが
18才の時、親分のジョー・"キング”・オリバーが彼のキド・
オーリーを辞めて、北へ行く決心をしたため、サッチモのバンド
でのコルネットのポジションはセカンド、トップへと昇格しま
した。また別の"Tuxedo Brass Band"のセカンド・コルネット
奏者となりました。サッチモは17才で結婚し、いとこの遺児
クラレンス(3才の男児)を養子として引き取りましたが、
彼は怪我による脳障害児でした。最初の妻とはすぐに離婚しま
したが、クラレンスはその生涯にわたりサッチモが養育しました。
ミシシッピー川蒸気船での演奏経験により楽譜も読めるように
なり、20才でコルネットをトランペットに持ち替えてソロ
奏者となり、ジャズ草創者の一人となりました。そして21才で
彼の親分であったジョー・"キング”・オリバーの招きにより、
北の都会シカゴへ移り、そのバンド"Creole Jazz Band"に入り
ました。当時の風の都シカゴは工業都市として発展し、多くの
黒人労働者が南から流入して工場労働者として働き、活気の
ある都会でしたので、労働者の慰安を満たす夜の街も大いに
栄えており、サッチモも大きな収入が得られるようになりま
した。オリバーのバンドは20年代にわたりシカゴにおいて
ホット・ジャズのトップバンドとして君臨しつづけました。
サッチモの暮らしは王様のようになり、彼自身のアパートを
所有して、そこに彼が始めてとなる個室のバスルームを持ち
ました。サッチモの初レコーディングは22才の1923年
で、オリバーバンドのコルネット奏者としてソロの演奏も含まれ
ました。その頃友人の紹介で名曲”スターダスト”の作曲者
でピアニストのホーギ・カーマイケルにも初めて会いました。
サッチモは親分オリバーと仕事を楽しんでおりましたが、2番目
の妻でピアニストのリル・ハーディング・アームストロング
の薦めにより教会でのクラシック音楽の演奏を行ったり、最後
にはオリバーバンドでのサッチモの取り分の増額について介入
されて、オリバーと円満に袂を分かつことになりました。そして
23才でニューヨークの黒人トップバンド、フレッチャー・
ヘンダーソン楽団にトランペット奏者として招かれました。
そこにはテナーサックスのコールマン・ホーキンスがソロ
プレーヤーとしており、二人はお互いの演奏に刺激を与え
ました。楽団は白人客のみの有名な"Roseland Ballroom"等で
演奏を行い、そこには洒落た演奏スタイルのドン・レッドマン
やデューク・エリントン、楽団も出演しており、そこでもサッチモ
は大変な評判を博しました。またニューオーリンズ時代からの
友人でピアニストのクラレンス・ウィリアムスの編曲による多く
のレコーディングを行いました。それには小編成バンドで、
サックスとクラリネットのシドニー・ベシエが加わった"Williams
Blue Five"との共演があり、ベッシー・スミス、マ・ライニー、
アルバート・ハンター達、ブルース・シンガーとの共演も含まれ
ます。1925年、24才の時妻の薦めにより再びシカゴに戻り、
彼自身のバンド、"Hot Five"と"Hot Seven"を結成してヒットと
なった"Potato Head Blues"、"Muggles"、"West End Blues"を
プロデュース録音しました。またこのグループにはトロンボーン
のキッド・オーリー、クラリネットのジョニー・ドッド、バンジョー
のジョニー・St・シル、妻でピアノのリルで編成され、通常は
ドラムレスでした。またピアニストのアール・”ファーザ”・
ハインズとの"West End Blues"でのアドリブ(即興演奏)は後のジャズ史
に最も影響を与えるものとなりました。その他サッチモは”Erskine
Tate’s Little Symphony”というクインテット(五重奏)を組み,
ライブ演奏やサイレント(無声)映画のバック演奏、クラシック音楽
”蝶々婦人”のジャズスタイル演奏等も行いました。そして25才で
彼が初めてとなるスキャット・シンギングを"Heebie Jeebies "のレコー
ディングに取り入れ、全米でもっと最も有名なジャズマンとなり
ました。またアル・カポネの仲間のジョー・グレーサーが所有する
"Sunset Cafe"でピアノのアール・ハインズが加わっていたキャロル・
ディッカーソン・オーケストラに迎えられ、バンドは"Louis Armstrong
and his Stompers"と改名され、アール・ハインズとは良き共演者となり
ました。妻のリルと離れてサッチモは28才でニューヨークへ戻り、
ピアノのファッツ・ワーラーとアンディ・ラザフが作った黒人の
ミュージカル"Hot Chocolate"のオーケストラ・ボックスでの演奏に
出演し大成功を収めました。またボーカリストとして"cameo"に出演
し、黒人ミュージカルの"Ain't Misbehavin "の劇中歌を歌い、その
レコードは当時の彼のベストヒットとなりました。またハーレムで
最も有名なコットン・クラブにつぎ2番目に有名な"Connie's Inn"
にもボーカルで出演し、レコードでは1931年(サッチモ30才)に
RCAが開発した最新のリボンマイクによるボーカルのレコーディング
を始め、これは暖かみのある声のビング・クロスビーを代表とする男性
ボーカリストの'crooning'サウンドと呼ばれました。また旧友である
ホーギ・カーマイケルの作曲した”スターダスト”を始めとする多くの
楽曲を歌い大成功を収めました。その中でも”レイジー・リバー”は
ジャズのスタンダード・ソングとなり、その後多くの歌手達も歌い
ました。30年代前半アメリカは経済大恐慌に陥り、ジャズ界も苦境
に追い込まれ、1936年には上記のコットン・クラブも閉鎖を余儀なく
されました。多くの黒人旧友ジャズメンは故郷のニュー・オーリンズに
戻り、29才でサッチモは西海岸のロサンゼルスに移り、
ライオネル・ハンプトンがまだドラムを演奏していたニュー・コットン・
クラブでの演奏に加わりました。それらのクラブではビング・クロスビー
を始めとする一流プレーヤーが出演しており、それらのナイトクラブでの
演奏がラジオにより、実況中継されておりました。30才で初めての映画
"Ex-Flame"にも出演しましたがマリファナの不法所持で有罪となり、翌年
末にはシカゴに戻り、バイオリニストでバンドリーダーのガイ・ロンバルド
楽団で演奏しました。しかしシカゴでは暴動が発生し、街を出なくてはなら
なくなった為に故郷のニュー・オーリンズを訪れ、そこではヒーローとして
歓迎され、旧友達とも再会しました。彼は地元の野球チーム"Armstrong's
Secret Nine"のスポンサーとなり、かれの名前の葉巻も売り出されました。
そして暴動の多発するアメリカを逃れてヨーロッパに渡りました。ヨーロッパ
から戻った後には、マネージャーとの金銭トラブル、借金トラブル、長年の
疲れによる指と唇の故障等に遭遇し、その歌やパフォーマンスのスタイル
を変えて行きました。再び映画にも出演するようになり、36才の時には
全米ネットのCBSラジオの番組で、初の黒人の司会者となりました。
37才で長年の妻リルと正式に離婚し、ガールフレンドのアルファと結婚
しました。その後は軽音楽界の変遷、ギャングによる音楽界の支配、黒人
差別を受けながら演奏スタイルを磨き、42才で4度目の妻となるルシール
と結婚してニューヨークのクイーンズに最後の居を構えました。その後は
30年間に年間300回以上の演奏をこなしましたが、40年代には大衆
の音楽の好みの変化、ダンスホールの閉鎖、娯楽の競争相手となるテレビ
の出現により、16人編成のビッグバンドは経済的にその維持は困難と
なりました。1947年(46才)にサッチモのビッグバンドは解散し、
サッチモとトロンボーンのジャック・ティー・ガーデン、ピアノのアール・
ハインズ、その他それぞれバンドを率いていたリーダーにより、6人編成
のスモールバンド"All Stars"が結成され、ニューヨーク・タウンホール
でコンサートが行われました。この時期にサッチモは多くのレコードを
制作し、30本以上の映画にも出演しました。また1949年(48才)
にはタイム誌2月号の表紙を飾りました。1964年(63才)には
最大のヒットレコードとなった"Hello, Dolly!"がリリースされ、これは
当時ポップチャートで14週連続1位のビートルズを蹴落としてのもの
でした。その他米国政府の後援により、アジア、アフリカ、ヨーロッパ
各国にツアー演奏を行い、"Ambassador Satch(サッチモ大使)"と呼ばれ
ました。サッチモは上記のハロードーリーで1964年のグラミー賞を
獲得し、死後の翌年1972年にはグラミー生涯功労賞、1973年に
設立されたグラミーの殿堂、およびロックの殿堂入りをしております。
また1995年発行の32セント米国切手にその肖像が描かれております。
1971年7月ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルで行わ
れたショーでの演奏後、心臓麻痺により帰らぬ人となりました。この歌を
作ったメスィオウ・ピンカート(1897-1962)はウェスト・バージニア州の
出身で16才で同州の黒人のブルーフィールド州立大学で学び、翌年に
初めての"I'm Goin' Back Home"を作りました。そして自身のオーケストラ
を組織して指揮者として全米をツアーで廻りました。翌年にはネブラスカ州
オマハに劇場の代理店、ニューヨークには音楽出版社を設立し、20才で
ニューヨークに自身のメスィオウ・ピンカート・ミュージックを持ちま
した。そこで彼は自分の作曲した曲をシカゴやニューヨークの音楽出版社
に売り込み、21才でニューヨークのシャピロ、バーンスタイン・アンド・
カンパニーに採用されて、翌年には初のビッグヒットとなった"Mammy O'
Mine"が出版されました。また折からの第一次世界大戦にちなんだ"Don't
Cry Little Girl, Don't Cry"を作詞作曲しました。ハーレム・ルネサンス
における偉大な作曲家の一人となった後の10年間にこの歌”シュガー”
を始めとする多くのヒットソングを作り、1928年にはケネス・ケーシー
作詞でサッチモが歌った"Sweet Georgia Brown"を作曲しました。また
デューク・エリントンを音楽出版業界に紹介したのも彼で、こうして
エリントンが作曲した多くの名曲が楽譜となり、エリントンもメスィオウ
の曲を自分のバンドで演奏し、レコーディングもしました。また25才
の時には初の黒人によるブロードウェイ・ミュージカル・コメディの
"Liza"を作り、プロデュースしました。メスィオウ・ピンカートとこの歌
を作ったスィドニィ・D・ミッチェル(1888-1942)は主に歌の作詞を行い
ましたが、1929から38年の晩年にはハリウッドで多くのミュージ
カル映画に作曲を提供し、1936年の映画"Sing, baby, sing"では
ルイス・オールターと共作で"You turned the tables on me"の歌を作り
この歌はジャズのスタンダードソングとなりました。サッチモの生涯は
ジャズが発祥した20世紀初頭からの文字通りジャズの歴史そのもので
あり、全てのジャズメンがパパ・サッチモと呼んで敬愛した最も偉大な
ジャズマンであります。なおこの歌は1946年にサッチモが油の乗り
きった46才の時にロサンゼルスにて録音されたもので、そのスタイル
が確立された歌とトランペットのアドリブ、また彼の共演者の演奏も全て
が素晴らしいものであります。
ルイ・アームストロング( 公式サイト )
メスィオウ・ピンカート( ソングライターの殿堂 )
この歌についての感想、思い出等
もっとボーカル!
アマゾン・ミュージック ルイ・アームストロング
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