ビング・クロスビー ホワイト・クリスマス(White Christmas)
作詞・作曲/アービング・バーリン
BING CROSBY BEST SELECTION ( MCA )
ホワイト・クリスマス
僕は、ホワイトクリスマスの夢を見ている
昔僕が知っていたような
木の梢は光り
子供たちは雪の中を走る橇の鈴の音を聴く
僕は、ホワイトクリスマスの夢を見ている
いつもクリスマス・カードを書きながら
あなたに陽気な明るい日々と
あなたのクリスマスが真っ白になりますように
僕は、ホワイトクリスマスの夢を見ている
いつもクリスマス・カードを書きながら
あなたに陽気な明るい日々と
あなたのクリスマスが真っ白になりますように
意訳:アンクルポップ
この曲を創ったアーヴィング・バーリン(1888-1989)は帝政
ロシア時代に、父親がラビを務める敬虔なユダヤ教徒の一家に
生まれました。 5才の時に家族とともにアメリカのニューヨ
ークに移住しましたが、3年後に父親が死去したため、新聞
売りや靴磨きなど様々な職を転々としました。後にチャイナ
タウンのカフェのウェイター兼専属歌手になり、そこで歌う
ための曲を自作し好評を博すようになりました。その後ボード
ヴィルの舞台に自ら上がる他、23才で作った”アレキサンダ
ーズ・ラグタイム・バンド”のヒットをきっかけに本格的に
ショーの世界に入り、ミュージカルの作詞、作曲を行いました。
第一次世界大戦になると、慰問ミュージカルショーのために
数々の作品を手がけるようになり、この頃、第二の国歌と呼ば
れるようになった”ゴッド・ブレス・アメリカ”を作詞、作曲
しました。その後の第二次世界大戦にも慰問を行い、好評を
得ました。39才の時、世界初のトーキー映画である”ジャズ・
シンガー”の音楽を手がけ、アル・ジョルスンが歌う”ブルー
スカイ”が大ヒットとなり、以降多くの映画音楽を手がけ、
47才で代表作の1つである”トップハット”が大ヒットするなど、
当時隆盛を誇っていたハリウッドを代表する映画音楽家となり
ました。第二次世界大戦後もこの歌”ホワイト・クリスマス”や
”ショーほど素敵な商売はない”などの名曲を数々残し、この
”ホワイト・クリスマス”は彼が52才の時の作品で、54才
の時、ミュージカル映画の”ホリデー・イン”の中で、ここで
歌っているビング・クロスビーと女優のマジョリー・レイノルド
とのデュエットで最初に歌われ、アカデミー賞のベスト・オリ
ジナル・ソング賞を受賞しました。同年デッカ・レコードにより
発売されたこのレコードは、10月末にラジオの”ユア・ヒット
パレード”でトップに立ち、折からの第二次大戦中の軍隊向けの
ラジオ放送でも人気を博し、翌新年の初めまでトップを続け、
その翌年、翌々年もシーズンになると、トップとなりました。
この歌のシングル盤はトータルで5000万枚以上という史上
最大のヒット・レコードとなり、ギネス・ブックの世界記録に
掲載されました。その後アーヴィング・バーリンは74才で作詞
、作曲活動から引退しました。引退後もアメリカを代表する
音楽家の一人として高い評価を受け、80才でグラミー賞の
生涯功労賞を受賞し、死後にはその栄誉を称えて記念切手が
発行されました。ここでこの歌を歌っているビング・クロスビー
(1903-1977)は、太平洋に面したワシントン州タコマに彼の父親
が自ら建造した家で、男女7人の五男として生まれ、3才の時に
家族は同州のスポーケンに移り住みました。祖先は17世紀に、
英国からメイフラワー号に乗ってアメリカに渡ってきた移民
でした。彼が14才の時の夏に、スポーケンの公会堂で働いて
いた彼は、多くの出演者を目撃し、特に顔を黒く塗ったアル・
ジョンソンの歌に魅せられました。17才の秋に法律家を
目指してスポーケンのゴンザガ・カレッジに進みましたが、
通販でドラムセットを購入して、それに習熟して地元のバンド
に加わりました。そこで多くの金が稼げたため、カレッジを
退学してショウ・ビジネスに転進しました。23才の時ロス・
アンジェルスのメトロポリタン劇場でアル・リンカーとデュオ
で歌っていた時、当時最も有名であったバンドリーダーのポール・
ホワイトマンに認められて、週給150ドルで雇われ、シカゴの
チボリ劇場でデビュー出演しました。そしてコロンビア・レコード
から最初の"I've Got The Girl"がリリースされました。また、
ポール・ホワイトマンはアル・リンカーとビング・クロスビーの
デュオにハリー・バリスを加えた”ザ・リズム・ボーイス”を
結成して売り出し、すぐにビング・クロスビーはザ・リズム・
ボーイスの呼び物のスターとなり、25才で最初のヒット曲
"Ol' Man River" が出されました。その後もヒットが続きま
したが、ザ・リズム・ボーイスを離れてソロ・シンガーとなり
ました。30年代には、ソロのトップシンガーとなり、1931
年はトップ50の内の10曲をビング・クロスビーの歌が占め、
新しく出来たレコード会社のデッカと長期契約を結びました。
またその翌年には音楽映画制作の"The Big Broadcast"の79本
の映画に出演し、55本がそのトップヒットとなりました。
33才の頃からCBSのラジオショウにも出演するようになり、
彼の出演はその後10年間続きました。そして彼の歌唱スタイル
はクルーナー(Crooner)と呼ばれ、38才の時に史上最大のヒット
となった、このホワイト・クリスマスが歌われました。彼は生涯で
1,700回のレコーディングを行い、その内383曲がトップ
10に入り、1931年から1954年の間に41曲が1位を
獲得しました。また4回のアカデミー歌唱賞を受賞し、59才で
最初のグラミー生涯功労賞を授与され、そのレコード売り上げ
総数は5億から9億枚といわれ、この記録はフランク・シナトラ、
エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、ビートルズだけが
達成しました。彼は73才の死の直前まで活動を続け、スペイン、
マドリッドのゴルフ・コースで18ホールのプレー後、突然の
心筋梗塞により生涯を閉じました。また彼が残した遺産は1億
5000万ドルともいわれております。
ビング・クロスビー ( 公式サイト )
アービング・バーリン ( ミュージック・カンパニー )
リク村尾のHP(ジャズ詩大全)
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